「潤一郎訳 源氏物語 巻一~巻五」(紫式部/谷崎潤一郎訳)

原文の優雅な空気をいささかも損なわない現代語訳

「潤一郎訳 源氏物語 巻一~巻五」
(紫式部/谷崎潤一郎訳)中公文庫

現在、源氏物語の原文を
一帖ずつ読みながら、
よく理解できない部分を
瀬戸内寂聴訳と谷崎潤一郎訳を
参照しながら確認しています。
この二つの現代語訳は、
対極にあるといえます。
寂聴訳が注釈の一切ない、すべてを
丁寧に訳しきった訳文であるならば、
潤一郎訳は必要最小限の訳文であり、
かなりの量の注釈が記載されています。
注釈だらけという印象さえ受けます
(その大量の注釈は同頁内にあり、
参照には手間はかからないものの、
煩わしさは相当なものがあります)。

なぜ注釈が多く必要か?
潤一郎訳は原文の雰囲気を尊重し、
訳者が補う部分を
最低限に抑えてあるからです。
付け加えるものが少ない代わりに、
差し引かれるものも少ない。
それが潤一郎訳です。

「葵」の帖の冒頭の一文を見てみます。

「世の中変りて後、
 よろづものうく思され、
 御身のやむごとなさも添ふにや、
 軽々しき御忍び歩きも
 つつましうて、
 ここもかしこもおぼつかなさの
 嘆きを重ねたまう報いにや、
 なほ我につれなき人の御心を
 尽きせずのみ思し嘆く。」
(原文)

「御代が変わりまして後は、
 何事も億劫にお感じになり、
 官位も高くなられたせいも
 ありましょうか、
 軽々しいお忍び歩きも
 なさりにくくて、
 ここかしこのおん方々が
 心もとない思いをさせて
 いらっしゃるのでしたが、
 その報いでか、
 相変わらず自分につれない
 かのおん方のお心を、
 限りもなく嘆いてばかり
 おいでになります。」
(潤一郎訳)

「桐壺の帝が御譲位あそばされて、
 御代が替わりましてからは、
 源氏の君は、
 すべてのことがもの憂く、
 億劫になられた上に、
 大将に昇進され、
 御身分も重々しさを
 加えられたためか、
 軽々しいお忍び歩きも
 憚られるようになりました。
 あちらにもこちらにも、
 ひたすら君を
 お待ちしている女君たちは、
 なかなかお逢いできない悲しさに
 苦しんでいらっしゃるのでした。」

 (寂聴訳)

慣れていなければ、
「お忍び歩きしにくくなった」のが
源氏で、
「嘆いている」のが女性たちであることに
なかなか気付きにくいと思います。
潤一郎訳は、
「前後の文章と敬語の使われ方を
考えればこの程度はわかるはず」という
部分については
主語を補完していないのです。

しかし、原文の雰囲気を
最大限伝えているのは
やはり潤一郎訳です。
原文の持つ優雅な空気を
いささかも損なうことなく、
現代語に置き換える。
そのためには主語の追加は
最小限にとどめる。
そして敬語を最大限に生かす。
それによって行為や言動の主体が
何者であるかを判断可能にする。
それが潤一郎訳の基本線なのです。

潤一郎訳を理解するには、
文法的には
まず敬語を理解する必要があるのです。
そして源氏物語を味わうためには、
私たちも
学んでいかなくてはならないのです。

(2020.7.18)

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